エッセイ

自分で作らない創作の時代に、主体はどこに残るのか

秋山竜次、オリエンタルラジオ、くっきー!から考えるAI時代の作家性

著者:Taku|生成AI論
初版公開日:2026-07-01 / 最終更新日:2026-07-01

自分で全部を作らなくても、主体は消えない。では、何が残れば、それはその人の作品になるのか。お笑いの安全装置を限界まで振り切る芸から、生成AI時代の創作主体を考える。

秋山竜次の面白さのひとつに、「自分で全部を作っているわけではないのに、どう見ても秋山の作品になってしまう」という現象がある。

たとえば、曲は業者に任せる。映像も、演奏も、編曲も、録音も、専門の人が関わる。けれど、そこで出来上がるものは、単なる外注品にはならない。なぜなら、その前にすでに秋山の中で、人物像、言葉遣い、業界臭、妙な肩書き、過剰な自意識、本物っぽい嘘が立ち上がっているからだ。

秋山は、作業を全部自分でやっているから作者なのではない。「お任せしても秋山になる核」を、先に発生させている。ここに、生成AI時代の創作主体の問題がかなりはっきり現れている。

創作主体は、作業する人から、立ち上げる人へズレている。手を動かした人ではなく、この虚構を成立させた人。作った人ではなく、何を作品として世界に置くかを決めた人。そこに主体が移りつつある。

オリエンタルラジオにも、似たものがある。「PERFECT HUMAN」以降のオリラジは、漫才師がネタをする、という枠からは大きく外れている。曲があり、振付があり、衣装があり、照明があり、中田敦彦という神格化対象がいて、藤森慎吾という煽動者がいる。そして、それを観客が半笑いで受け入れる。

カッコつけすぎていて限りなくダサい。でも、そのダサさの前提で、本気でやり切っている。普通なら、芸人はどこかで照れる。「いや、これはネタですから」と安全装置を置く。本気でやっているように見えても、最後には笑いとして回収する。

しかしオリラジは、その回収をぎりぎりまで遅らせる。カッコつけていること自体が笑いなのに、そのカッコつけを途中で崩さない。だから見ている側は、笑っていたはずなのに、少し巻き込まれてしまう。

野性爆弾のくっきー!も同じ系譜にいる。くっきー!の場合は、意味不明、悪趣味、過剰、気持ち悪さの前提で本気である。変なことを言っている、という軽い処理で終わらせない。顔、声、造形、絵、言葉の選び方、間の取り方が、全部かなり本気で作られている。だから、笑いでありながら、どこか儀式のようでもあり、民俗仮面のようでもあり、夢に出てくるもののようでもある。

秋山は、パロディの前提で本気。オリラジは、カッコつけすぎてダサいの前提で本気。くっきー!は、意味不明で悪趣味な前提で本気。三者に共通しているのは、お笑いという枠組みを使いながら、お笑いが本来持っている照れや回収を、分かっていて限界まで振り切っていることだ。

これは、単に芸人論ではない。AI時代に、人間が何を生産するのかという問題につながっている。

生成AIは、文章を書く。画像を作る。曲を作る。コードを書く。資料をまとめる。ホワイトカラーの仕事がなくなる、知的生産が自動化される、と言われる時代に、人間の価値を「作業量」や「処理能力」だけで測ることは難しくなっていく。

では、人間には何が残るのか。それは、世界のどの歪みに気づくか、なのだと思う。何を面白がるか。何を作品として立ち上げるか。どこまでを自分のものとして引き受けるか。生成物の中から何を残し、何を捨てるか。ここに、まだ人間の主体が残る。

創作主体は、手を動かした量ではなく、世界のどの歪みに名前を与えたかに宿る。

歪みとは、世界の中にあるズレ、ねじれ、違和感、過剰、不均衡のことだ。なんか変。なんか可笑しい。なんか痛い。なんか恥ずかしい。なんか美しい。なんか許せない。なんか懐かしい。なんか怖い。この「なんか」に名前を与えること。そこに創作がある。そしてこの歪みは、小説でしか書けない何かにも似ている。

小説が扱ってきたのは、出来事そのものではなく、出来事が人間の中で変形して残る感じである。誰かが部屋に入ってきた。何かを言った。沈黙があった。袖口が少し汚れていた。その瞬間、なぜか昔のことを思い出した。情報として要約すれば、ほとんど何も起きていない。しかし小説では、その「ほとんど何も起きていないのに、何かが決定的に変わった感じ」を扱える。

まだ名前になる前の感情。まだ思想になる前の違和感。まだ作品になる前の気配。まだ本人にも分かっていない自画像。小説は、それらをすぐに説明せず、正解にせず、回収せず、しばらく生かしておくことができる。

AI時代に残る人間の仕事も、それに近いのかもしれない。説明できるものを作ることではなく、説明される前のものを壊さずに運ぶこと。

作ったのは誰か、ではない。この虚構を成立させたのは誰か。何の冗談なのか。何を本気で信じているのか。どんな自画像を世界に置こうとしているのか。

AIによって作業が減っていく世界で、人間がなお生産するとしたら、それは単なる成果物ではない。世界の見方である。歪みへの名づけである。説明される前の気配である。そして、その虚構を、どの恥ずかしさ込みで引き受けたかである。

秋山、オリラジ、くっきー!が示しているのは、自分で全部を作らなくても、主体は消えないということだ。ただし、主体が残るためには条件がある。その人にしか見えていない可笑しさがあること。本人も恥ずかしいと思いながら、どうしても捨てられない痛さがあること。降りたほうが安全なのに、降りられない虚構があること。本気なのか冗談なのか曖昧なまま、それでも引き受けている何かがあること。そこに、AI時代の作家性が立ち上がる。

人間は、もう作業する動物ではなくなるかもしれない。知識を処理する存在でもなくなるかもしれない。そのとき人間がするのは、世界の歪みを発見し、それに名前を与え、虚構として立ち上げ、恥ずかしさ込みで引き受け、社会に流通させることなのだと思う。

作品を作ることではなく、世界の見方を発生させること。そこに、まだ人間の仕事がある。