エッセイ
AIしか使わない世代は現れるか
検索・動画・対話、そして「世界を創造する」ことについて
検索エンジン、動画視聴、AI対話という世界への入口の変化をたどりながら、「AIしか使わない世代」が現れる可能性を考える。重要なのは、AI利用そのものではなく、AIの中で世界を閉じるのか、AIを使って現実へ戻るのかという分岐である。
パソコンを使えない世代がいる。
スマホのフリック入力は速いけれど、キーボードでは文章を打てない世代がいる。
検索エンジンではなく、YouTubeで調べる世代がいる。
では、さらに進んで、動画すら見ない世代が現れるだろうか。
検索もしない。
動画も見ない。
まずAIに聞く。
世界への入口が、検索窓でも再生ボタンでもなく、対話欄になる世代である。
これは十分にあり得ると思う。
ただし、それは単に「AIしか使わない」という話ではない。
もっと深い変化は、世界に触れる前の動作が変わる、ということだ。
かつて、パソコン世代はキーボードで世界に入った。
何かを知るには、まず機械に向かって文字を打つ必要があった。
フォルダを開き、ファイルを探し、ソフトを起動し、コマンドやショートカットを覚える。
世界は、操作するものだった。
次に、検索の世代が来た。
世界に入るには、言葉を検索語に変換する必要があった。
知りたいことを分解し、キーワードを選び、検索結果を見比べる。
世界は、探すものだった。
その後、YouTubeやTikTokの世代が来た。
彼らにとって、世界は検索結果の一覧ではなく、誰かが見せてくれる映像として現れる。
料理、旅行、勉強、ニュース、メイク、ガジェット、思想、人生相談。
文章を読む前に、まず誰かが喋っている。
世界は、見るものになった。
そして今、AIとの対話が入口になりつつある。
AIに聞くと、検索語に変換しなくてもいい。
「こういうことを考えている」
「なんとなく気になる」
「自分の場合はどうすればいいか」
そう投げるだけで、返答が返ってくる。
これは便利である。
けれど、便利さだけでは説明できない変化がある。
検索は、自分で探す行為だった。
動画は、誰かの経験を見る行為だった。
AI対話は、世界をいったん自分用に組み替えてもらう行為である。
だから、これからはこういう人が出てくるだろう。
調べるが、出かけない人。
動画は見るが、自分では調べない人。
動画すら見ず、AIに要約させる人。
そして、動画視聴で自分の時間を消費するより、AIとの対話によって、自分だけの世界を作ることに時間を使いたい人。
これは一見、能動的に見える。
動画をただ見ているより、AIと対話している方が、自分で考えている感じがする。
実際、AIは返答を変える。
こちらの言葉に反応する。
質問を返し、整理し、比喩を出し、物語を作り、画像やコードや企画にまで展開してくれる。
だから、AIとの対話は「消費」ではなく「創造」に見える。
そして実際に、創造になる場合もある。
AIを工房として使う人が出てくる。
小説の設定を作る。
論考の構造を組む。
ブランドの世界観を設計する。
ゲームの都市を作る。
音楽や映像やWebサイトの原案を作る。
自分の思考を壁打ちし、仮説を立て、外に出す前の形を整える。
そういう人にとって、AIは検索エンジンではない。
先生でも、秘書でもない。
むしろ、作業場である。
頭の中にあった曖昧なものを、いったん外に出して、触れる形にするための仮設足場である。
この意味では、「動画を見る時間がもったいない。自分はAIと話して何かを作りたい」という感覚は、これから確実に強くなると思う。
けれど、そこには危うさもある。
AIとの対話は、能動性の感覚を与える。
自分が入力している。
自分の言葉に応答が返ってくる。
会話が進む。
世界が広がる。
しかし、その世界が現実から切り離されているなら、それは創造ではなく、対話型の夢になる。
動画の受動性は分かりやすい。
画面を見ているだけだから、自分でも「いま消費している」と分かる。
AI対話の受動性は分かりにくい。
自分が参加しているように感じるからだ。
しかし、外部からの抵抗がない。
人に会わない。
街に出ない。
物に触れない。
失敗しない。
匂いも湿度も沈黙もない。
誰かの表情が曇ることもない。
自分の言葉が現実の相手に届いてしまう怖さもない。
その状態で、いくらAIと世界を作っても、それは現実ではない。
よくできた内面の模型である。
だから、これからの差は、単にAIを使えるかどうかでは決まらない。
検索がうまいかどうかでもない。
動画で学べるかどうかでもない。
おそらく差が出るのは、AIのあとに何をするかである。
AIの中で世界を閉じる人。
AIを使って現実へ戻る人。
この二つは、まったく違う。
AIの中で世界を閉じる人は、無限に語れる。
どこまでも設定を作れる。
どこまでも思想を展開できる。
どこまでも自分に合った物語を生成できる。
しかし、現実は変わらない。
AIを使って現実へ戻る人は、少し違う。
AIで仮説を作る。
それを持って人に会う。
街に出る。
物を見る。
失敗する。
違和感を覚える。
恥をかく。
相手の反応を受ける。
そしてまたAIに戻り、考え直す。
その往復の中でだけ、思考は現実に接続される。
AIは、世界の代替ではない。
現実に戻るための橋である。
これから「AIしか使わない世代」は、たぶん現れる。
しかし、本当に強いのは、AIしか使わない人ではない。
AIを入口にしながら、最後には身体、場所、人間、物に戻れる人である。
検索する人。
動画を見る人。
AIと話す人。
そのどれが進んでいて、どれが古いという話ではない。
問題は、世界に触れているかどうかだ。
AIによって、私たちは今までより簡単に、自分だけの世界を作れるようになる。
それは素晴らしいことでもあり、危険なことでもある。
創造とは、頭の中に世界を作ることではない。
作った世界を、現実にぶつけることだ。
AIと対話する時間が増えるほど、最後に問われるのはそこだと思う。
その対話は、現実から逃げるためのものなのか。
それとも、現実にもう一度触れるためのものなのか。